海と言えば湘南!なんて言われるくらい誰もが憧れるエリア。
マリンスポーツのメッカとしても有名ですが、歴史を感じさせるスポットや緑も多いので夏だけでなく一年中楽しめます。
また、古都鎌倉は観光客に大人気のエリア。古い神社仏閣巡りや緑地散策はもちろんのこと、老舗の店で一休みなど、食の楽しみも多く個性豊かなこだわりのショップがあるのでぜひ一度足を運んでみてください。
湘南といえば?
サザンオールスターズ
湘南は"サザン発祥の地"、そして茅ヶ崎市は桑田圭祐さんの地元でもあります。
茅ヶ崎、江ノ島、鎌倉、稲村ガ崎、烏帽子岩……。サザンオールスターズの曲で耳にしたことのある地名が随所に登場するのが、湘南です。
サザンビーチちがさき
2000年、サザンオールスターズの凱旋ライブで脚光を浴びた「サザンビーチちがさき」。沖にはサザンの名曲「勝手にシンドバッド」の歌詞の中にも登場し、茅ヶ崎市のシンボルとして親しまれている烏帽子岩が見えます。サーフィンやフィッシングなどのマリンスポーツも盛んで、湘南祭や浜降祭など茅ヶ崎を代表するイベントの舞台にもなっています。
サザン通り
茅ヶ崎駅から海へと向かう道は3本あります。かつて加山雄三さんが住んでいたとされる「雄三通り」、「高砂(たかすな)通り」、「サザン通り」の3 本。「サザン通り」は1999年に改称され、この通り付近にある商店街を「サザン通り商店街」と呼ぶようになりました。夏には浮き輪やサーフボードを抱えてサザンビーチに向かう人で賑わいます。商店街のスピーカーからは、サザンオールスターズの曲が流れ、通る人の耳を楽しませています。
湘南乃風
日差し照りつける夏!夏といえば海!海といえば湘南!湘南といえば風!昨今の人はサザンより湘南乃風!なんて人も多いんじゃないでしょうか?
湘南乃風は、RED RICE、若旦那、SHOCK EYE、HAN-KUNから成るダンスホール・スタイルの5人組MC。RED RICEとHAN-KUNの2人が湘南で活動していた頃にSHOCK EYEと出会い、同じ頃、湘南に住んでレゲエBARを経営していた若旦那が、SHOCK EYEと偶然にも茅ヶ崎で再会。それぞれの出会いがきっかけで湘南乃風が結成されたんだそうですよ。
SLAM DUNK
スラムダンクは、1990年に連載開始された、「井上雄彦」著のバスケットに青春を燃やす高校生たちの、汗と涙と笑い(?)、そして恋(?)を描いた、スポーツマンガです。
そして、その高校生たちが活躍するのが湘南エリアなんです。
湘南民は是非スラムダンクを読んで、スラムダンクを読んだことのある人は是非舞台となった地をめぐってみてください。
湘南エリア概要
国内文献における「湘南」の初出は倭名類聚抄で、かつて中国に存在した長沙国湘南県である。中世中国の湘南では禅宗が発展し、そのメッカであった。現在の日本では「湘南」とは主に神奈川県相模湾沿岸を指すが、うち禅宗を保護した鎌倉幕府の拠点「鎌倉」は、現在も禅宗臨済宗建長寺派および臨済宗円覚寺派の大本山「建長寺」・「円覚寺」の所在地であり、鎌倉時代には夢窓疎石らにより日本の禅宗の中心地ともなった禅宗と非常に密接な関係を有する土地でもある。
現在の日本では、「湘南」は各方面で曖昧に使われている言葉であるが、俗的にはおおむね神奈川県南部を指す地名として用いられることが多い。鎌倉、江の島などは観光資源も豊富で、夏を中心に多くの観光客を集め、昨今は「海・太陽・若者」など、主に映画、ドラマ、歌の題材等により造り上げられた良好なイメージなどから、その範囲が拡大される傾向にある。
「湘南」の由来
「湘南」とは、もともと現在の中国の湖南省を流れる湘江の南部のことで、かつては長沙国湘南県が存在し、中世には禅宗のメッカとなった。日本における「湘南」も禅宗の流入に伴って広まったと考えられ、「禅宗」を保護した鎌倉幕府の北条得宗家が居し、国内初の禅寺「建長寺」や「円覚寺」を擁した鎌倉周辺の地域が、中国の「湘南」にちなんで名付けられたといわれる。実際に、円覚寺の僧夢窓疎石の周辺には「湘南」を冠する人物・建築が散見される。また、1664年ごろ、室町時代に中国から日本に移住した中国人の子孫が小田原に居してういろう商人となり(崇雪という人物)、自ら創設した大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが、現在の神奈川県周辺域における呼称の起源ともいわれる。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあり、本物は大磯町が管理している。
明治期の「湘南」
江戸期に大磯を発祥の地として命名されたといわれる「湘南」は、明治期には政治結社名や合併村名に用いられた。このころは、相模川以西地域が湘南、相模川以東地域は湘東または新湘南という認識であった。明治期の「湘南」のイメージは、山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる。
一方、明治維新によって当時の西欧の流行であった海水浴保養が日本にも流入し、逗子や葉山、鎌倉、藤沢などの相模湾沿岸が海水浴に適した保養地として注目され富裕層など特権階級者の別荘地となり、現代の湘南文化の礎となる風俗文化が生まれた。
1897年に赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介、翌年1898年の元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂し、随筆集『自然と人生』(1900年)を出版した。これがきっかけとなり、当初は相模川西岸に限定された「湘南」は、いつしか相模湾に面した地域一帯を指すようになった。